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筑後乃国阿蘇神社
阿蘇神社の総本社である 肥後一ノ宮の阿蘇神社を始め、全国に約500社ある阿蘇神社。
当社も正式には「阿蘇神社」です。
海津のお宮、みやま阿蘇神社など、親しみを込めてお呼びいただき有難うございます。
恵良惟澄本人が「恵良筑後守阿蘇筑後守」と称していたことから、筑後乃国阿蘇神社と名乗っております。
当社は勝負運・商売繁盛・厄除けの神様として、御参拝をいただいております。
朝鮮の役に出兵した柳川藩家老小野和泉守は、当社に御礼言上参拝しましたその後 感謝の辞として、現在の社殿並びに神田を献納いただきました。
由緒

延元元年1336年 南北朝時代
南朝方についた阿蘇の大宮司・阿蘇惟直さまと義弟の恵良惟澄たちは、多々良が浜(現在の福岡市東区)で大敗します。
当時の大宮司阿蘇惟直は義弟の恵良に蛍丸(大太刀)を託し自刃します。
惟澄は辿り辿って杣の里より矢部川を下り、川のほとりでこんこんと深い眠りに落ちていました。傍らには鋸のように欠けた刃。そこへ無数の蛍がやってきて強い光を明滅させます。翌朝、惟澄が目を覚ますと太刀は元の如く青白い光を放つ、こぼれの全くない銘刀にかえっていました。(*国宝 蛍丸伝説は、諸説あります)
延元二年1337年
近くの宮園城の城主・大木貞久は、惟澄の傷が癒えるまで城内に留まらせます。
貞久の「貴方の郷、阿蘇の大明神を分霊して、ここ海津古川の丘陵に祀られよ」との勧めもあり、惟澄は海津古川の地に阿蘇の神様を奉祀します。
早鷹宮、これが筑後乃国阿蘇神社の前身です。
惟澄は後に筑後守に任命され、晩年は肥後国阿蘇神社の大宮司まで昇り詰めます。
蛍が修復したとされる国宝「蛍丸」は、肥後国阿蘇神社大宮司家の宝刀として秘蔵されてきましたが、戦後行方不明になっています。
かたや、海津の地では惟澄の子孫とされる江良家が代々宮司を務めており、江良の本家には「蛍刀」という太刀が先祖代々受け継がれています。GHQによる戦後の刀狩りの際には、神社の裏に5〜6年埋めて難を逃れました。その為保存状態は悪く、銘の保証もありません。
時代は移り筑後国は立花藩の支配を受けるようになります。宗茂公と共に朝鮮の役に出兵する際に必勝祈願をした家老・小野和泉守(日本槍柱七本の一人)は めでたく凱旋され、早鷹宮(阿蘇神社)にお礼言上参拝されました(海津郷土史より)
元和八年1622年
小野和泉守の命により社殿並びに神殿が寄進、現在の場所に早鷹宮より阿蘇神社として分霊、新築されました。またその後も小野和泉守・小野若狭守、そして代々海津の氏子の方々より神殿再建、楼門再建に非常な尽力をいただきました。
初代宮司の恵良惟澄より、大木貞久、小野和泉守、海津の氏子の方々を始め、多くの方々のお陰で、共に長い間 守り・守られてきた筑後乃国阿蘇神社。令和四年(2022年)には移転400年、そして 令和十九年(2037年)には創建700年を迎えます。

令和四年 創立六八五年
御鎮座四〇〇年記念
祭祀について
祭祀、祈願のご案内
御田植祭
毎年三月第一日曜日 斎行
一年前から神田の耕作に始まり、本殿に奉納する大注連縄の製作、赤白鈴紐作りに至るまでの準備。当日は神事の後、社殿隣広場にて御田植神事を奉納。神職を中心に、花笠を被った早乙女(小学生)、田打男、馬草刈り、種蒔、其々の役が面白可笑しく演じられ、五穀豊穣が祈られる。平成10年にみやま市指定無形民俗文化財に登録。




